ようやくカラー原稿が一段落つきました。とはいえ、締め切りに追われているのは相変わらずですが。(苦笑)
それにしても、いつまでたっても暑いですね。
深夜から明け方にかけては、だいぶ涼しくなったものの、日中はまだまだこの暑さが続きそうな気配ですので、
皆様もどうか御自愛のほどを。
ところで、この場を借りて「チェーザレ」作中でのサピエンツァ大学の時間割について、今更ながら説明の補足をさせて頂きます。
あの時代の時間割という物についてなのですが、実は当時、原さんがかなり詳しく書かれた資料を探してきてくださっていて
内容的にもちょっと面白いものがあったので、改めてここで御紹介しようかと思います。
作中では授業の時間割については、アンジェロの受講するものだけをピックアップして描きましたが、
あの当時、深夜零時からの授業開始という記録も残っていて、実は現在の常識では考えられないような時間帯に
授業を行っていたようなのです。
何故そのような時間帯にわざわざ授業を行っていたのだろうと、その時は何気に疑問に思ったものの
結局はスルーしてしまっていたのですが(他にも調べなければならない事が山ほどあり、要するに時間がなかった)
最近になってふと思ったのが、実はこの時間割は主に夏に発動されていたのではないかという事です。
要するに暑さ対策というか、学問するなら快適な時間に限る、なんて理由だったのではないかと。(あくまで推測です)
ついこの間、知り合いのイタリア人の方に、イタリアでの夏の過ごし方について訊ねた所、やはり暑さが厳しいとイタリア人は
木陰などでのんびり過ごす事が多いらしく、(ヨーロッパは日本と違い湿気が少なく、日陰は涼しく過ごしやすい)
その結果夜が長くなるという訳で、(所謂夏時間という奴ですね)皆さん割りと夜遅くまで活動し、朝はゆっくりとしているそうです。
疲れていたり不快だったりすると、結局は効率が落ちてしまう訳だから無理はしない、今日出来なくても明日があるじゃないか、
というのがイタリア式夏の過ごし方らしいです。羨ましいほどに道理に適っていますね。
(ただし、飲食関係やサービス業についてらっしゃる方達は、さすがにそうは言ってられないらしい)
日本人の性なのか、私などは少々バテ気味でもとりあえず机にしがみ付いて、予想通り作業も進まず失意のうちに
仕事部屋を後にする、そんな事を繰り返してばかりで何とも悲しいものを感じてしまいます。(苦笑)
因みに、チェーザレ達の時代の夜遅くに行われていた授業は、結局は学生、教師、双方にとって不評だったようです。
理由は時間帯からいって、学生も教師も食事とワインで軽くいい気分になっている頃合なので、
言動はあやふやだわ居眠りはするわ、要するにまともな授業にはならなかったのではないかと言う事でした。
出来れば作中で、酔っ払いだらけの授業風景など描いてみたい気もしましたが、(笑)
正直そんな余裕もなく、エピソード的にも本分から逸脱しているため割愛させて頂きました。
当時の授業内容は作中でも描いた様に、法学部の場合はディスプターチオ(討論)で行われていたようなのですが、
実際どのような状態だったのかは皆目見当つかずで、色々と考えた末、ダンテの「神曲」をテーマに現在の法廷劇のような形で
再現しました。
これは、たまたま原さんがダンテの研究者であった事と、地獄篇三十三歌の舞台がピサの街であったという偶然から
引用する事にさせて頂きました。
最初は軽い思いつきで提案したのですが、原さん曰く
「ベストな選択です。「神曲」の講義をするのなら、是非ランディーノを登場させないといけませんね」
「誰ですか?それ」
「ご存知ないのですか?ダンテ研究の第一人者クリストーフォロ・ランディーノですよ」
知るわけがない。
という訳で、クリストーフォロ・ランディーノの当時の状況の資料と肖像画を探す事となり(探し当てたのは担当編集者)
さらに改めて「神曲」を読む羽目となり(地獄篇三十三歌のみ)
そんなこんなの繰り返しで当初もらった半年の休みが、最終的には一年になってしまったという訳でした。
思えば、この辺りから原さんと私の暴走が始まったのかもしれませんね。
要するに、サピエンツァ大学の資料を筆頭に、それに関連した記述を芋づる式に次々と探っていったら、
その探し当てた様々な文献等が、実は暴走するほど面白かったという事なのだろうと思います。
※7/15でお知らせしたピサ(フィレンツェ)の新年の日付ですが、4月からと書きましたが、厳密に言うと3月25日からがピサでの
正式な新年となります。またこれはフィレンツェでの年の数え方なのですが、当時ピサはフィレンツェの統治下にあったため、
サピエンツァ大学の名簿にはフィレンツェと同様の日付で履歴が記されていました。