2021/01/19


2021年が始まりました。
旧年中は本当にいろいろありましたが、一年の始まりくらいはせめて前向きな事を綴っていきたいと思います。

2020年はEテレ「漫勉neo」に出演させて頂き、同業者である浦沢さんとお会いすることも出来て、
大変貴重な体験をさせて頂きました。
お話を頂いた段階でかなり戸惑ったのですが、自身の作画や仕事内容が何らかの役に立つかどうかはさて置き、
長年一緒に仕事をしてきたスタッフ達が、やけに薦めるので理由を聞いたら、
これだけ長い間近くにいても、ペン入れしているところを見た事がなかったので、この機会に是非見ておきたいとの事で、
言われてみれば、通常アシスタントが仕事中に私の後ろに立って、ぼーっと手元を見ているなんて事は有り得ませんからね。
スタッフとは長い者で20年以上、短い者でも10年以上の付き合いになりますが、
ペン入れの終わった原稿は山ほど見ていても、実際私が描いているところは一度も目にした事がなかった訳で、
その言葉を聞いて私事で申し訳なかったのですが、彼らのためにもアーカイブとして残せればいいかなと思い、
今回このお話をお受けする事に致しました。
そういう彼らのスキルも本当に素晴らしいので、個人的には彼らの手元ももっと映してもらえれば
作画の参考になったかもとは思いましたが、番組上そこは致し方なかったですね。

※因みに服の柄等を主に担当しているスタッフの玉川は、自身でも作品を発表しているプロの漫画家で
モーニングでの連載「草子ブックガイド」の作者、玉川重機でもあります。
スクリーントーンを一切使わず、手描きで全てを仕上げるその作風は私も驚愕する世界です。
  玉川重機のツイッターhttps://twitter.com/tamanchu

そして「漫勉neo」の番組自体は50分の放送だったのですが、実際の浦沢さんとの対談の収録時間は3時間強もあり、
冒頭15分程はVTRそっちのけで、お互いの新人時代の話で盛り上がってしまいました。
実は浦沢さんと私はほぼ同期で、しかも当時同じ街に住んでいたそうで、
36年以上も経った今そのことを知らされて大変驚きました。
さらに同時期に、きたがわ翔さんもそこに住んでいらしたそうで、
浦沢さん、きたがわさん、そして私と、3人で同じ画材店を利用していて、
知らず知らずのうちにスクリーントーンの争奪戦を繰り広げていたようなのです。
思い起こせば60番台の網トーンはいつも在庫がなくて、私は仕方なく50番台を使っていたのですが、
毎回完全にお二人に後れを取る形となっていたようです(笑)。
当時は東京の街も仕事も何もかもが手探り状態で、アシスタント経験もなかったことから、
本当に孤独な作業を一人延々と部屋で続けるばかりの毎日で、
まさかすぐ近くに同業者が二人もいたなんて気づきもしませんでした。
そのお話を聞けただけであの頃の光景が蘇ってきて、しんどいながらも何とも懐かしい気持ちを思い出させて頂きました。

※「漫勉neo」の再放送が今月の21日の22:00 Eテレで放送されますので、
  見逃したという方はその辺りも踏まえた上で御覧になると面白いかもしれませんね。

また「チェーザレ」制作においてはスタッフの助力だけでなく、担当編集者のバックアップも大変大きな役割を担っています。
番組では尺の関係で残念ながらカットされていましたが、私の背面に映っていたのは歴代担当者が作ってくれた作中の年表です。
監修の原さんが調べてくれたものを、歴代担当者達が登場人物の行動とその時代に起こった出来事を照らし合わせながら
表に纏めてくれたもので、言わばこれが「チェーザレ」のナビゲートとなってくれています。
他にも原さんの知人である松下さんという方が翻訳してくださった、サチェルドーテの「ボルジア伝」などを始め
邦訳がない原書をとてもわかりやすい日本語として知ることが出来て、それも大変贅沢で恵まれた事だと思っています。

このように常時、情報の更新が書き足されていっています。

そしてこれがデビューから36年間、下絵を描く際に愛用していたシャープペンシルです。

漫勉で紹介されていたのは今現在使っている0.3ミリの物でしたが、これは0.5ミリの物で
「チェーザレ」の10巻まではこちらを使っていました。

0.3ミリに替えたのは、2015年にヴェルサイユ宮殿から依頼された作品「マリー・アントワネット」の作画で、
レース等の細かい装飾の下絵を入れるのに、0.5ミリでは線が太すぎて正確性が損なわれたからです。
軽くて使い慣れていて、かなりボロボロにはなっているものの、ペン自体には全く不満はなかったのですが、
如何せん芯の太さはどうしようもなく、残念ながら一時休止という形になってしまいました。
茶色く変色している部分はテーピングの跡で、長年使っていたせいで指が当たる部分が微妙に凹んでしまい、
その補強としてウレタン製のカバーをしていたのですが、久しぶりに外してみたら、この通り色が変わってしまっていました。

これは、デビュー当時まだ地元の大分にいた頃、高校時代の友人が原稿の仕上げを手伝いにきてくれて、
その時に彼女が忘れていった物で、返す時に「これ軽くていいね」と私が言ったら、
「気に入ったんならいいよ、あげる」とプレゼントしてくれたペンでした。
私がとても喜んでいたら「それ100円のシャーペンやで、そんなに感謝されるとは思わんかった」と彼女も笑っていました。
決して高価な物ではありませんが、私にとっては本当に長年支えてくれた宝物のようなシャープペンシルです。
私達が使っている道具は、アナログの場合ほとんどが安価な物ばかりですが、そこから生み出されるものは、
自分が思う以上に人々に感動や喜びを与える事もあるのです。

このペンを見るたび自分が馴染める物、自分にとって効果のある物なら、道具は何でも良いのだと改めて思います。
因みにミリペンは87年頃、「ボーイフレンド」という作品の終盤くらいから使い始めました。
使い始めてかれこれ34年程になりますが、実は当初ミリペンには拘りとかはなく
単純に時短のためだけに手に取った物でした。
当時はほとんど一人で描いていましたから、月刊誌と隔週誌の連載を抱えているのに、そこに読み切りを定期的に
ねじ込んでくるという出版社の体制にさすがに耐えきれなくなり、
当時の出版物は、とにかく合間を開けずに描き続ける事が人気を維持する事だと言われていて、
休めば読者の期待を裏切ることになると、編集部から散々プレッシャーをかけられていました。
そのためにペン先をインクに浸したり、渇きを気にしたり、また擦れ等の汚れを気にしたりする時間が惜しくて、
それらを気にせず縦横無尽に線が引けるという理由から、最終的にミリペンの選択へと辿り着きました。

当時Gペンに限らず、カブラペン スクールペン、丸ペン (浦沢さんは日本字ペンを使っていると仰ってましたね)
また竹ペンや筆を使っている方もいましたが、その中でもサインペンは漫画のタッチにあまり効果的でないと不評でした。
時短の目的で使い始めたミリペンですが、これもやはり人と道具との相性なのだと思います。
私にとっては今では本当に力強い味方となりました。
※私自身、線を引く時は筆圧を控え目にして、紙の上を軽くなぞるような形でペンを動かしていますので、
  ミリペンも掠れが出てくるまで単行本一冊くらいは持ちこたえてくれています。
  掠れても陰影の斜線などに活用できますし、それこそ軽く消しゴムで消せますので適材適所で重宝しています。

そして番組でも触れていた「一年に三度しか外出しなかった」という話ですが
それは最低がその年であっただけで、だいたい年10~20回くらいは外に出ているとは思います。
三回しか出られなかったという年は、作画に追われていたというより、
とにかく集めた資料の読み込みと、それを理解し整理する事、整合性を見出す事に必死だった時期で、
翻訳された資料を何度も読み直したり、撮りためた写真の選択をしたりしていたら、
必然的に外に出ない生活を送る羽目になっていたという訳です。
しかもスタッフの中には厨房でバイトしていた者、ホテルの清掃のバイト経験のある者もいて、
食事や部屋の掃除などをケアしてもらっているため、私はほぼ仕事と犬猫の世話だけに専念出来てるような有様です。
おかげ様でこの十年でそれなりの知識も身に付きましたが、脂肪も十分すぎる程付いてしまい
気が付けば15キロも体重が増えていました。
知識を得るのはとても時間を要するのに、贅肉が身につくのはあっという間なんだなと改めて思い知らされた次第です。
まあ結局は老化による、ただの中年太りなんですけどね(苦笑)。

二年前に引き取った保護犬アリー(♀)と散歩でもと思っていたのですが、この子も外を怖がる子でして
結局、今現在も我が家のリビングを一周しては玄関までの廊下の道のりを、リードを付けた状態で
私と行ったり来たりの疑似散歩の毎日を送っています。
私以外の人間には小刻みに震えてしまって、玄関の外に連れ出そうとすると、リビングにある自分のベッドに
脱兎のごとく戻ろうとする本当に臆病な子で、相性が良いというのか飼い主共々引き籠りの犬なんです。
一応健康のために南側のリビングで、私も一日1時間はアリーや猫達と日光に当たっておりますが、
浦沢さんにも折角薦めて頂いた事ですし、このコロナ禍が収まったら心を入れ替えて、
アリーと一緒にもっと外に出る生活を志そうと思っております。


PAGE TOP