週刊モーニングで「マリー・アントワネット」第一回目が掲載されました。
物語はマリーとルイの次男、後のルイ17世となるシャルルが生まれた直後から始まります。
1789年に起こるフランス革命の4年程前、
アントワネットとルイ・オーギュストにとって、この頃が人生で一番穏やかで幸な日々だったのではないかと思われます。
グレナ社(ヴェルサイユ宮殿)からは、160Pで単行本一冊にまとめてほしいとの依頼でしたので、
どの部分に焦点を当てるか悩みましたが、彼らの何が今現在まで誤解、曲解されてきたかを踏まえた上で
アントワネットのお輿入れから、ヴェルサイユ宮殿で王太子妃として、彼女なりに人生を歩み始める様子を描く事にしました。
少年少女の結婚がテーマといえば、何気に少女漫画を彷彿させますが、
当時、大国であったオーストリアとフランス、二人の結婚は「世紀の結婚」と言われ
これによって敵対していた両国に同盟関係が生まれ、ヨーロッパ全土に大変な衝撃が走ります。
※今で言うならアメリカとロシアが同盟を結ぶくらいの衝撃だったようです。
この時アントワネット14歳、ルイ・オーギュスト15歳、現在でいうなら中学生の年頃、全くの子供です。
まだ成熟していない子供同士が、国と国の政策で結婚させられてしまうのですから、
近世とはいえ、まだまだ過酷な時代でした。
アントワネットとルイ・オーギュストについては、オーストリアの作家であるシュテファン・ツヴァイクの伝記が有名ですが、
ツヴァイクは歴史研究者ではなく、あくまで作家の立場からアプローチしているため、
正しい部分もあるのですが、けれん味溢れる表現に流される傾向があり、それがまことしやかに言い伝えられた事が、
現在のマリー・アントワネット、ルイ・オーギュスト像を定着させるに至ったのだと思われます。
ルイ・オーギュストにおいても、冴えない風貌、背は小さく太っている等の表現がありますが、
実際の彼は、15歳の段階で178センチあったという記録が残っており、処刑時には192センチの長身になっていたようです。
それに対してアントワネットはかなり小柄だったようで、コンピエーニュの森で引き合わされた際に、その姿を見た者たちは
彼女が10歳から12歳くらいにしか見えなかったという記述を残しています。
※後にアントワネットが髪の毛を高く盛ったりしたのも、背の高すぎる夫との釣り合いを考えて、美容師がアレンジしたのでは?
などと、担当編集の北本とヴェルサイユ滞在中に冗談半分に話したりしていました。(笑)
アントワネットも15歳を過ぎたあたりから、身長も伸びて体つきも女性らしくふくよかになっていったそうです。
それでも夫との身長差は結構あったと思われます。
またアントワネットとの婚約時のルイ・オーギュストの絵画や線画を見る限り、彼が痩身である事が確認できました。
筋肉質な体躯でかなりの力持ちだったようでして、錠前作りだけではなく自室の内装を職人達の陣頭指揮を執りながら
自ら作業に携わったりと、今でいうところのDIYといったところでしょうか。
そのために公式以外では動きやすい簡素な服装をしていたらしく、この辺りが王族としては冴えないと揶揄された原因でも
あるようです。
※当時は孔雀の如く華やかな衣装をまとい、力仕事などとは無縁のオシャレな男性が高貴で粋だと思われていました。
どうやら彼はバリバリの理系男子だったようですね。
ルーブル美術館を訪れた時、ルイ16世のブースでは彼の愛用していたコンパスや製図用の器具が展示されていました。
国王になった時の肖像画では、やや太めに描かれているのですが、王の貫禄として恰幅よく描かれるのが
当時の慣例であったということでした。
実際に彼が太ったのは革命後に幽閉されてからで、日課の狩りに出かけられなくなった事が原因だったようです。
では、何故ツヴァイクがルイ・オーギュストを小さく太った男だと表現したのか?
それは当時、 アントワネットの尻に敷かれて小さくなっているルイ16世の風刺画が出回っていたため
(王妃に頭が上がらない哀れな国王という揶揄を込めたもの)
これを鵜呑みにしたのか、敢えて引用したのか、今ではその心意はわかりませんが、
※ツヴァイクの著書の中にも、ルイ16世の身長が192センチだったという記述があるので、
何故小さいと表現したかは謎のままです。
どちらにせよ、良くも悪くもツヴァイクのこういった数々の刺激的なエピソードが、アントワネットを特異な存在として
有名にした要因であることには違いありません。
まだまだ興味深い話はたくさんあるのですが、それは追々お話ししていければと思っております。
そして「チェーザレ」です。
リハビリも終わり、ようやく1492年のイタリアに戻ってこれた感じです。
アンジェロも健在です。
それではまた。