カンツォニエーレ チェーザレ

「カンツォニエーレ チェーザレ番外編」ですが、実は内容は元々チェーザレ本編の14巻に用意していたものです。ある意味続編なのですが、登場人物の当時の所在確認や動向については精査できておらず、私の想像によるものが大きいため敢えて番外編として発表させて頂きました。

スポレート滞在時でのエピソードも参考文献の一次資料であるグスターヴォ・サチェルドーテ著作「チェーザレ・ボルジア伝」では詳細がつかめていないため、サチェルドーテ自身も「チェーザレは歳相応に青春を謳歌したであろう」との一文を残しているのみです。

チェーザレについての情報は、これまで教皇庁によって制作された人物伝(チェーザレは枢機卿でもありましたので教皇庁所縁の者として記録されています)によるものが定番とされてきましたが、これに疑問を抱き独自の研究を行って来たのがおよそ100年以上前のイタリア人研究者グスターヴォ・サチェルドーテです。

※残念ながら監修が未だ完了していないため翻訳本がなく、現時点では原書しか存在していない状態です。

因みにピサ校でのチェーザレの人間造詣は、ジョヴァンニ・デ・メディチと共にピサに滞在していた側近が、ジョヴァンニの父親ロレンツォに送った手紙にチェーザレがジョヴァンニの学友として大変相応しく知性と品格を備えた好男子であると綴られていた事(言い換えるとジョヴァンニにとって有益で、メディチ家にとっても拍が付くと知らせている)が下地にあります。

こういった当時の人間たちの書簡はリアルな人物像に近づく貴重な情報でした。

しかしチェーザレに関連した人物達の詳細には曖昧な点も多く、特に同姓同名の人間が大量に存在するため、例えばローマの大貴族オルシーニ家ですが主流のオルシーニ家だけでも三家存在し、オルシーニの名前の由来である「オルソ」熊という意味にあやかって代々長男が誕生するとオルシーノという名前が付けられる傾向があったため、祖父、父、息子、伯父、従兄弟が同時期に同じ名前を名乗るという事態にもなっていたと思われます。他にも各一族間で聖人、偉人の名前を多用するため、誰がいつの時代の○○なのか判断が非常に難しく、サチェルドーテもかなり苦労したであろう事が文面からも伝わってきました。

それでも不明な点は不明とし、憶測や偏向的な文章は見受けらないところが信憑性を裏付ける大きな決め手となりました。

サチェルドーテ著作「チェーザレ・ボルジア伝」が無事監修を終えて一日も早く世に出るよう願ってやみません。

また「カンツォニエーレ チェーザレ」で、チェーザレがヴァティカンのボルジアの間に描かれていたピントゥリッキオ作の壁画を見る場面では、一番右の人物(作中ではまだ空白)をチェーザレとさせて頂きました。理由は一人だけ武器、防具を持っていなかったからです。四人兄弟の中で(長男はすでに死亡)聖職者になったのはチェーザレだけで、聖職者は武器防具を持ってはならない人間とされているからです。

因みにローヴェレはユリウス二世になった後、教皇でありながら防具を身に着け戦地に赴いた事から当時の有識者からは批判されたそうです。

現代では5月8日に新教皇レオ14世が誕生しました。私はどちらかと言うと無神論者の類にカウントされる人間ですので、この事が世の中にどのように反映されるのかわかり兼ねますが、信仰心が人々の心の礎になるのであればそれはそれで良い事ではないかと思っています。

補足

教皇が何故法王ではなく教皇かと言うと、教皇は教えを説く者であり、法を司る者ではないからだそうです。漢字を扱う日本語としては正しい解釈と言えるのかもしれません。