正月気分もようやく抜けてきた今日この頃です。
仕事始めに色画稿の下絵を描いているものの、だらだらとして中々拍車がかからないのが現状です。
元々スロースターターな性分なため、いずれ腕も暖まって一気に仕上げるであろうと希望的観測の元、日々筆を動かしている
ような次第です。
カラーで思い出したのですが、モーニング48号の扉絵(2巻の帯にも使用)で描いたイラストで、チェーザレが上段から
鷲掴みにしようとしている、天使の手の中の光る物体について、あれは何だろう?と思った方もいらっしゃるかと思います。
あれはオステンソーリオといってカトリックのミサの際に使用する物で、イタリア語の綴りはostensorio
直訳すると聖体掲示台となるのですが、我々日本人にはピンときませんよね。
あれの中にはミサの際、主の肉に見立てたラスクのような食べ物が保管され、信者に与える仕様になっているのですが、
要するにオステンソーリオとはイエスの象徴、御本尊のような物なんですね。
チェーザレの場合はキャラクターから鑑みて、あのような暴挙に出ていますが、もしあれを目の前に差し出されるような事が
あったとしても、どうか真似なさらないように。教会関係者からマジで怒られますから。(笑)
「チェーザレ」を描くにあたり、色々な絵画や教会に纏わる資料に目を通している毎日ですが
「なんだ?こりゃ」というような代物をよく目にします。
そのつど原先生に電話して確認を取るのが常なのですが(毎度うるさくてすみません)
実の所、一番苦労しているのがルネッサンスの服装です。
衣類はさすがに保存がきかず、現存している物は男女問わず皆無の状態でして、サヴォナローラが着ていたとされる僧衣が
残されている程度というのが実情です。
結果、絵画から読み取るしかない有様なのですが、これで判断できる事と言うとアンダーウェアとして大半の人間が上着の下に
白いシャツを着ているのがわかっており、素材は麻、絹と思われ、階級または季節によって素材は変わるのかもしれませんが
形状は同じで首、手首で巾着のように紐で絞って体系に合わせていたようです。
スペインの服装はすでにボタンなどを使用していてわかりやすいのですが、多分包み(くるみ)ボタンにフック状のボタンホールを
あつらえていたと思われます。
まあ問題なのはフィオレンティーナですね。
この時期ではボタンで服の開閉をするに至っておらず、紐で服を閉じていく方式を取っていたと思われ
袖などは付け袖というやり方で袖自体が取り外し可能な状態になっており、装着の際に体に合わせて紐を絞っていってたのでは
ないかと思われます。紐の部分は現在でいう所の編み上げブーツの様式とでも言いましょうか。
上着も首周りに調整可能な切れ目と紐が通されていて頭からすっぽり被った後、絞って調節するといった具合になっていたと
思われます。
本当ならこのディテールまで描くべきなのでしょうが、さすがにそこまで拘っていると鬱になりそうだったので割愛させて
いただきました。(苦笑)
因みに靴(ブーツ)も実は編み上げなんですね。正確に描くとブーツの内側に踝の下あたりまで切れ目があり
目立たないように紐が通されており、おそらく足を通した後に微調整しつつ締めていき、上部で紐を結び折り曲げて隠す
といった仕様なのでしょう。
靴は当然、動物の皮で出来ており、日本と違い家の中でも外でも石畳の生活ですから、消耗度も激しかったと思われます。
ダヴィンチが弟子サライに支給した靴の数が年間24足だったらしく、ひと月につき2足が消耗されていったと考えれば
その消耗度の高さが伺われると思います。
しかし何故フィオレンティーナに代表される、やたらと布がかさばる様な服装が当時の流行だったのかと疑問に思う方も
いらっしゃると思われますが。(かく言う私も疑問に思っているのですが)
思うにローマ帝国からの名残(トーガなどにみられる衣装)の感覚と、ヴァティカンを保有しているため、聖職者のファッションが
上流であるという美意識からなのか、どちらにせよ見た目にはあまり機能的には見えません。
作中の1491年はルネッサンス前期でまだイタリア半島が平和な時期でしたから、戦争に明け暮れて機能的にならざるを
得なかったスペインとは文化も含めて真逆であったと思われます。
スペインの服装はイスラムからの流れではありますが、あのような形になったのは、元々乗馬に適した格好を模索するうちに
辿り着いた結果です。(乗馬といっても戦闘用の騎馬兵としてですが)
しかし当時では、やはりヴァティカンが最大のブランドであり、教会職につく事がエリートであったのは間違いなく
その中枢であったイタリア半島はヨーロッパ人の憧れの的だったと思われます。
チェーザレは15歳でパンプローナ司教に任命されましたが、当時のパンプローナ司教の年間の支給額が1万2千ドゥカート
現在の日本円にして約15億円。(単純換算なので当時と現在の貨幣価値としての判断はしかねますが、当時の教会職での
支給最低額が2千ドゥカート程で、日本円にして約2億5千万円だそうなので、パンプローナという都市での司教の地位は
教会職の中でもかなり格上の役職だったようです)
そしてチェーザレが7歳当時(1483年3月に任命されたので9月生まれのチェーザレはこの時まだ7歳、数え年では8歳です)
の教皇庁書記長の段階で、最低でも5千ドゥカートは支給されていたのではないかと思われ、少なく見積もっても6億円。
7歳児の一年のお小遣いが6億。その後15~16歳の現時点で15億が追加され、毎年彼の口座に振り込まれていた訳でして。
考えるだけで卒倒しそうになりますが・・・、とんでもないエリートですね。さらに役職が追加される度に金額は加算されていって
いたはずなので、16歳当時での年間所得の内訳は相当な額になっていたと思われます。
開いた口が塞がらないとはこういう事を言うのだなと一頻り・・・
チェーザレの父親アレッサンドロ6世が亡くなった際、チェーザレは病床からミゲルに父親の財産を集めさせていますが
父アレッサンドロ6世の分とチェーザレ自身の財産(還俗した段階で教会から支給されていたお金は、すでにチェーザレの
私物となっていたので、教会に没収される事は免れたと思われます)
この段階で合わせていったいどれだけの財産があったのかは想像がつきません。