2007/08/15

今年も終戦記念日を迎えました。

気がつくと、私の中でも戦争(第二次世界大戦)という物が、日々風化していっています。

思えば当時イタリアは日本の同盟国でしたね。

三年前取材で訪れたピサの街の、アルノ河の橋全てが連合軍の空爆で破壊されたという話を思い出していました。

あの時も、戦争は日本だけに爪痕を遺していたのではないのだと言う事を、改めてを思い知らされた記憶があります。

と、言っても私は戦争体験者ではありません。

私の中にある戦争の記憶は、戦争体験者であった両親の話による物で、この時期になると毎年必ず当時の

戦中、戦後の日本の話を聞かされたものでした。

それでも広島、長崎の原爆投下の状況についての具体的な話を聞かされたのは、私が中学に上がってからの事だった

と思います。(私の年齢的な事に対する配慮からだったと思われます)

ここからの話は、主に私と私の父の会話での思い出となりますが、多少表現に過激なものがあるため

そういった事に拒否反応を示す方は、お読みにならない事をお薦めします。

昭和46年の5月だったと思います。私は中学一年になったばかりで、その日の夜9時過ぎたあたりでした。

居間でTVを観ていた私の元に父がやってきて、唐突に

「おまえ、死体見たいか?」と訊いて来たので、「人間の?」と訊き返したら「そうだ」と応えるので

ちょっと考えてから「うん」と返事しました。深く考えた返事ではなく条件反射のような感じだったと思います。

「じゃあ、付いて来い」と言われ、そのまま家を出て父の単車の後ろに乗り、近所の河川敷まで出かけました。

河川敷に近付くにつれ、周囲が異様な状況である事に私は多少不安を覚えましたが、

父はそんな事にはお構いなしに、「この先の陸橋で人が二人特急列車に飛び込んだ。心中らしい」

そう言うと、単車を止めて後ろの荷台から降りた私の手を引き、人だかりの中にどんどんと進んでいきました。

(今夜はやけに外がうるさいと思っていたら、原因はこの事件のせいでした)

河川敷の土手の付近まで行くと、そこには警官が何人かいて野次馬を整理していたのですが、

父はそのうちの警官一人に声をかけ「悪いけどもう一度通してくれ。今度は娘も一緒だ」と言い、それに対して

その警官は「え?お嬢さんですか?いいんですか?」と父に念を押し、それに対して父は

「いいんだ、教育だ。この子はまだ死体を見た事がない」そう言い

警官は戸惑っていましたが、父が引かないので結局「私は責任持てませんよ?」と言いつつ、

土手の最前列へと連れていってくれました。

(後から聞いたのですが、この警官は父(観世流能楽師)のお弟子さんだったため、融通を利かせてくれたそうです。

昭和40年代の日本は、まだこういった強引さが罷り通る時代でもありました)

そこから見えたのは、川のすぐそばあたりにビニールシートが敷かれており、その上に人間らしき塊が積み重なって

置かれている状況でした。(周囲ではまだ遺体の回収が続いていました)

夜でしたので、そこにはサーチライトが当てられており、遺体の全ては白く発光していました。

列車にはねられた際、バラバラになった遺体は下の川に落ち、そのために血は全部流されてしまっていて

警察が川から引き上げ回収を始めた頃には、このように真っ白になってしまっていたようでした。

(今思えば、血まみれの状態だったら、父は私をここへは連れてこなかったのではないかという気がします。

おそらく、それ以前に警官が通さなかったでしょう)

まだ子供であった私はここに来るまで、まるでお化け屋敷にでも行くような気持ちでいたのですが、(不謹慎ですが)

実際に目にすると、なんだかとても寂しい気分になった記憶があります。

帰り道、父は私に「あれ(死体)、どうだった?」と訊いてきました。

「物になってたね」と応えると

「だろう?」 「人間はいずれ皆死ぬけど、あれはいかんな。他人に迷惑かけたらいかんだろ」

そう言うと父は急に話題を変え

「おまえ、広島と長崎に原爆落ちたの知ってるだろ?」と訊いてきました。

「うん、学校で教わった」

「長崎に落とされた時、俺は小倉にいたんだが、あれ本当は小倉に落とされる事になってたの知ってたか?」

「そうなの?」

「あの日、小倉は曇ってて、それで長崎に変更されたんだ」

「あの日、小倉の上空が晴れてたら、俺もおまえも今ここにはおらんな」

「ほんとだね」

そんな会話をしながら家にたどり着くと、母が鬼のように怒っていました。

こんな時間に父と私が家から消えてしまっていたので、まさかと思ったらしく(母は父の性格をよく把握していたもので)

そのまさかが本当だったため、そこからは父と母の激しい口論が始まってしまいました。

「娘にそんな物を見せるなんて、どうかしてる」

「これも教育だ」

「何が教育ですか」

と言ったような両親の、子供に対する教育方針と意見の対立が、その後夜遅くまで続いていました。

多少乱暴な気もしますが、人によっては眉をひそめるような行為でも、それが父なりの教育だったのでしょう。

昭和20年8月、父は当時福岡県小倉市の予科練で出兵を待っている若い兵士でした。

東京、大阪など日本の主要都市が米軍に空爆され沖縄が占領され、まさに本土決戦を覚悟していた時だったそうです。

6日に広島に新型爆弾が落とされたという報告が入り、その状況の詳細もわからないまま、

9日に長崎にも同じ物が落とされ情報が錯綜する中、父達若い兵士は長崎へと向かうことになりました。

長崎が壊滅状態だったため、負傷した生存者を福岡の病院まで搬送するためです。

長崎の中心部に近づくにつれ、父達はその状況に息を呑んだそうです。

長崎は瓦礫と死体の山で、それは今までに見た事のない光景だったそうです。

その中にも辛うじて生存していた人達を救済にきたものの、被爆者は体中火傷で皮がめくれ、そのために

支えてあげたくとも触ると悲鳴をあげるので、ただトラックへ誘導する事しか出来なかったそうです。

福岡に着くまでトラックの中からは、ずっと泣き声が聞こえていたそうで、それでも何をしてあげられる訳でもなく

福岡に着いたときには、数名はすでに死体になっていたそうです。

その間父達若い兵士は、休憩時間に食事を取っては食べた物を嘔吐するを繰り返すしかなかったそうです。

この時父は日本の終末を覚悟したそうです。

昭和46年の心中事件には後日談があり、事件のあった次の日私が学校へ行くと、学校でもこの話で持ちきりでした。

仲のいい友人達に、実は昨夜その現場に行ったのだという事を話すと、友人達は驚き興奮し挙句の果てに放課後

そこへ連れて行ってくれと言い出したのです。行ってももう死体はないよ、と言ったのですが

それでもいいからとせがむので、気乗りはしなかったものの皆で向かう事となりました。

河川敷に降りその場所に近づくに従って、異様な臭いが漂ってきました。

「これ何の臭い?」と友人が訊ねるので「もしかしたら昨夜の死体の一部が残っているのかもしれない」と応えたら

皆黙り込んでしまい、そしてさらに進んで行くと、その先にかなりの数の犬が集まっている光景が見えてきました。

ちょうどその時、その中の一匹がこちらへ小走りに向かってきたのですが、その犬の口には昨夜回収しきれなかった

遺体の残骸であると思われる物が銜えられており、それを確認したとたん友人達は悲鳴を上げ逃げ出してしまいました。

私は先へ進む訳にも行かず、その犬が通り過ぎるまでそこで棒立ちになっていたのですが、友人達が戻ってくる気配が

なかったので、結局皆の所へと引き返しました。友人達の中の一人は泣いていました。

その友人の気持ちが落ち着いた所で皆帰路についたのですが、帰り道私は父が見たという長崎の光景を想像していました。

「こんなものではなかったんだろうな」 思いつくのはその程度の事でした。

毎年この時期になると我が家では、自然と戦争の話になりました。

当時の子供の親は大半が戦争体験者だったため、どの家庭でも戦中戦後の話は聞かされていたと思います。

「別府の上空をB-29が飛んでいくのを見た時、なんて綺麗な爆撃機なんだろうって思った」母の戦争の記憶です。

「銀色の機体が太陽の光でキラキラしててね、米軍の爆撃機は本当に綺麗だった」

母の住んでいた別府は世界有数の温泉都市だったため、米軍の攻撃対象地区から外されていました。

米軍の空爆を受けていた父の住む小倉とは、全くの別世界に住んでいたと言っていいでしょう。

「馬鹿野郎、そのB-29は小倉の工場を空爆するためにやって来てたんだ。小倉は火の海だった」

「大分市の工場も空爆されたけど、あれは怖かった。別府市まで響いてきたあの爆撃の音は一生忘れられない。

あの時は本当に米軍が怖かったけど、でも戦争が終わって別府に進駐してきたアメリカ兵は優しかったので驚いた。

アメリカさんは紳士だった」

「ピカドン(原子爆弾)落とすような連中のどこが紳士だ」

「じゃあお父さん、日本軍の真珠湾攻撃、あれはどうだったの?」少し知恵をつけてきた私が生意気な事を言うと父は

「ありゃあ日本が悪いな。だが日本にはもう奇襲しかなかったんだ」 「でもピカドンは駄目だ。あれは駄目だ」

父は昭和57年8月4日に55歳で亡くなりました。 今思うと、父は日本の昭和という時代の生き証人でした。

戦争の真っ只中にいた父と、それを第三者的に見つめていられた幸運な母と、戦争を全く知らない私と

温度差が微妙に違う親子の会話は、いつも堂々巡りとなりましたが、最後は決まって父が私に向かって言う

この言葉で締め括られました。

「おまえは幸せだ」  本当にそう思います。

戦没者の方々の御冥福を心よりお祈りいたします。