実写化について思うこと


現在問題になっている原作のドラマ化についてのお話ですが
あまりにも重い結果を招いてしまったことを本当に残念に思っています。SNS等で事の経緯を知ったような有様ですが、何故ここまで追い込まれなければならなかったのか、芦原さんの置かれた立場を想うと本当に胸が痛みます。
当事者でない私がこの件に言及するのもどうなのかと思い悩んだのですが、私も過去に原作を実写化した経緯があることから、その時に感じたことを私なりに言葉にしてみようと思います。
2016年に今まさに渦中の日本テレビで私の作品「MARS」(講談社別冊フレンドで1996~2000年掲載)をドラマ化したことがあります。
※注 今回の脚本家、スタッフとは別の方々によって制作されたものです。
この時の実写化については正直あまり乗り気ではありませんでした。
それは多くの原作者が言っているように原作の大幅な改変が常習となっていたからです。
しかも別フレ編集部から連絡が来たタイミングがちょっと良くなく、私自身原稿を抱えながら二日後には取材で日本を離れなければならず、戻ってこられるのは一か月後という過密スケジュールの最中でしたので、熟考する余裕もなかったことから断るべきではと思ったのですが、別フレ編集部的にはどうなのかと相談したところ、編集部はメディア化はやはり有難いことだという見解でしたので、迷った結果別フレ編集部に一任する形で了承することとなりました。
その理由はすでに終わっている過去作でもタイトルがメディアに取り上げられれば多少なりとも単行本の売り上げに影響するため、私だけでなく出版社の利益にも繋がる可能性があったからです。
※それとある意味意地悪な発想で申し訳ないのですが、どの程度まで原作に寄せられるのか興味が沸いてしまいまして、すでに台湾でドラマ化されていた台湾版「MARS」と比べて日本ではどのような仕上がりになるのか見てみたくなったからです。
ここからは台湾版「MARS」の話になってしまいますが、こちらは2006年に監督ツァイ・ユエシュンさん 脚本シュー・ユーティンさん によって台湾で制作されました。
台湾の制作者サイドから編集部を通じてオファーがきた際、監督のツァイ・ユエシュン氏が原作のファンであり原作に忠実に創りたいと仰っていると聞き、もちろんこれは社交辞令にすぎないと半信半疑で承諾したのですが、蓋を開けてみれば本当に原作に忠実に創られていて逆に驚かされました。
そういった経緯があったため同じ作品が日本で作られた場合どうなるのか確かめてみたかったのですが、結果は想像通り原作とは別物と言うほかない仕上りとなっていました。想定内とは言え台本に修正を入れるたび、何故私の作品を実写化しようとしたのか謎に思うこともありましたが、それでも制作サイドの誠意は伝わってきましたし、演者の皆さんは本当に頑張っておられたと思います。
これは仕方のないことで台湾版とは予算も時間も掛け方が違うため、キャラクターや背景描写の解像度が極端に低くなり、それを補うために演者の俳優やタレントの人気に頼るしかない作りになっている…と言うか、その逆で演者のために用意されたドラマという表現の方が本当は正しいのかもしれません。
台湾の制作サイドが原作のリスペクトから始まっているのに対して、日本テレビサイドはまず芸能事務所の俳優、タレントの存在ありきで、それに適した原作を素材として引用しているだけのように私には感じられました。
これは時間や予算だけではなく、日本のメディアミックスによるものが大きいのではないかと思います。
人気のある演者と人気のある原作を組み合わせれば双方のファンとネームバリューで一定の数字は取れるはず、そこにエンタメ要素を増量すれば多少の改変があってもさらに数字は伸びるはず、それで視聴率も取れて原作本も売れればお互いWINWINで結果オーライ的な発想が根底にあるからではないかと思われます。
確かに漫画でもドラマでも大勢の人に観てもらわなければ淘汰されていくしかないと思いますし、ウケてなんぼの世界であるのも事実です。
そういった商業ベースはさておき、本題は今回の実写化に対して原作者である芦原さんが原作に忠実であることを望んでいたことであり、その拘りをテレビ局が承諾したことに大きな問題があると思います。
原作者の芦原さんがどれだけ切実であったかということを、日本テレビ、小学館、脚本家の誰もが理解していなかった、もしくは理解する気がなかったということでしょうか。
上で言ったように出版社は作品がメディア化される事で本が売れる可能性がありますから、内容に改変があってもまずはタイトルが拡散されることは有難いことで、一方テレビ局は芸能事務所との絡みもあり、できるだけ数字が取れる番組作りをしたい訳で、この段階でテレビ局と出版社の間で手打ちがあったとするなら、下請け的立場である、原作に忠実なものを望む原作者とエンタメ要素をいれて数字を取らなければならない脚本家は、否が応でも対立の構図となってしまいます。こうなると原作者も脚本家も、実はどちらも被害者だったのではないかと思えてくるのです。
もちろん一番の被害者は組織の外に置かれ孤立させられた芦原さんに他ならないでしょう。原作者の拘りを許諾した段階でテレビ局は責任を負うべき立場にあると思いますが、もともと原作者が加筆修正すると言っていたのだから、脚本家にテコ入れさせた物を原作者の気が済むまで手直しさせてやった我々に落ち度はない、と言う理論なのでしょうか。
また窓口となった小学館も本来なら事の経緯をはっきりと表明すべきだと思いますが、今後何も説明しないと発表したそうで、やはり公表できないような不適切なことがあったからなのでしょうか。漫画家一人の命よりもこれからのテレビ局との関係の方が大事ということなのでしょうか。

出版社も会社であり編集も一会社員なので限界はあるとは思いますが、作品を作っていく上で作家との信頼関係はやはり非常に重要な要素だと思われますので、出来る限りのケアをしてあげられていたならと本当に悔やまれます。
謹んで芦原妃名子さんのご冥福をお祈りいたします。

追記
シナリオ協会の座談会なるもので原作に忠実な脚本は原作トレースになるだけではという意見がありましたが、私個人としては原作通りなことによって逆に微妙な差異、掘り下げの加減や焦点の当て方等、個性やセンスが際立つこともあるのではないかと思っています。それは台湾版のドラマを観たときに原作に対して忠実でありながら自分たちの独自のカラーを打ち出すことにとても貪欲なものを感じたからです。
また「脚本家もオリジナルをやりたいんです」とその苦しい胸の内を吐露しておられましたが、それは漫画家も同じです。
最初から自由に描かせてもらえる漫画家はそうはいません。デビュー当初はまず編集から万人に受けるようにエンタメ要素を織り込んだものを要求されますし、スポーツ物サスペンス物、当たりがくるまで様々な要求が編集部から突き付けられます。少女漫画においては恋愛要素は絶対で、それは主な読者である十代の女の子の共感を得るのに一番有効なテーマだからです。当然プロットから始まり編集会議にかけられ、そういった経緯を経て連載枠を獲得しアンケートで順位を付けられながら読者の顔色を窺い担当編集の顔色を窺い支持を得て、その人気の度合いで編集部が作家性を認め、そこからようやく自分の本当に描きたい物、まさにオリジナルがやれるようになるのです。


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