「チェーザレ」掲載号が決まりましたので、お伝えします。
前回掲載は8月になると告知致しましたが、雑誌上の都合で9月13日からという事になりました。
掲載を楽しみにしていた方達には、本当に申し訳なく思いますが、もう暫くお待ちください。
9月13日から掲載予定の4話分は、すでに出来上がりつつあるのですが、問題は8月から作画に入る(入らないといけない)
単行本5巻の収録分です。
5巻収録分は、11月から再開予定しているのですが、一応年末年始を挟んで一気に10話分を掲載し来年の春には5巻を出す、
という流れで進行中です。(10話いけるといいのですが・・・)
この10話分がなんとか年内までに描き切れれば、かなりましなペースになってくるのではと、希望的観測な見方をしています。
とりあえずは次回掲載用のカラー原稿に着手しつつ、4巻収録分の再考をやる事になりそうです。
今回は3巻でのようなミスがないよう、編集共々かなり慎重に検討したいと思っております。
内容的にどうしても文字が多くなってしまう作品でして、写植の方にも大変な負担をかけているような有様ですが
(文字数が通常の5倍なのだそうです)それでも前向きに取り組んでいただいて大変有り難く思っております。
※3巻重版分では老コジモ=父→祖父への修正と共に、サピエンツァ大学の学生名簿の記録にも注釈を付けさせて頂きました。
注釈を付ける事を、原さんは迷っていたようなのですが(画面が文字だらけになってしまうため)
史実としては当然の事ですので、絵よりも事実を優先すべきと思い、これに関しては追記させて頂きました。
問題箇所は、この学生名簿のチェーザレの教皇庁書記長任命時の年代なのですが、ラテン語表記は1482年となっていますが、
これは実際残っている名簿を、そのまま写植によって再現したものです。
日本語訳では1483年になっていますが、その理由は、地域での新年の時差というものが関係しており、
この当時のピサは4月から新年が始まる事になっていたらしく(中世では各地によって新年が異なっていた)
要するにチェーザレが書記長に任命されたのが3月だったため、ピサの名簿には1482年3月任命となり、
現在(当時のローマ)では、1483年3月任命という事になるという訳です。
つまり、チェーザレは実際には1483年3月7歳(9月生まれなので、この段階ではまだ7歳)で教皇庁書記長を
任命されている訳でして、教皇庁では数え年で記録されているため8歳となっており、そのため作中でもチェーザレは
8歳で書記長になったと表現しています。
あの名簿はピサの教会で職員が手書きで作成しているため、当然の事ながら1482年3月となる訳でして、
実際の名簿を写し描きしても良かったのですが、架空の人物のアンジェロの設定を名簿に表記しなければならず、
履歴を設定、それをラテン語表記にし、写し描く時間を短縮する事と、何らかのミスがあった場合(何せ架空設定ですので)
訂正しやすいという理由から、写植で打たせて頂きました。
とりあえず原版の文字に一番近いフォントを選んだのですが、いずれ余裕が出来れば手書きで描き直せればと思っております。
初版を手に入れた方には、本当不備ばかりで申し訳ない。今後も精進します。
そして新たに登場したマキァヴェッリ。(勘のいい方はすでに1巻からお気付きになっていたと思われますが)
このマキァヴェッリの設定も、今更ながらですが創作です。
マキァヴェッリについては、かなり調査したのですが(これは原さんが随分と骨を折ってくださいました)
1491~2年の記録が全く見つからず、今現在では空白の2年間となっており、そのため逆に空白である事に乗じて、
メディチの密偵としてピサ、サピエンツァ大学に潜入させました。
この時期、マキァヴェッリの従兄のフランチェスコ・ネッリが、大学名簿の記録からサピエンツァ大学に通っていた事が
判明しているのですが、何故かニッコロ・マキァヴェッリの記録が全く残っておらず、(因みにマキァヴェッリの弟はドメニコ会に
入会しており、このあたりの経緯は、関連性として必要であれば作中で触れるかもしれません)
マキァヴェッリ本人は、かなりの学力を持っていたはずなので(ラテン語を話せた)、それにも拘らず大学に在籍していなかった
というのも実に不思議な話で、穿った見方をするなら、作為的な何かがあったのではないかと推測する事もできるのです。
そういった「かもしれなかった」を今回も活用し、敢えてマキァヴェッリを「チェーザレ」作中にこのような形で登場させました。
今現在も、原稿作成と同時進行でデータ収集はしているのですが、歴史の記録には「絶対」と言い切れる物がないのが
実は現実でして、それはその時々の事を記録していくのが、その時代の生身の人間であり、そこに何らかの政治上の都合やら
圧力やら私情やらが作用する事で、その事実は微妙に歪められる事も有り得ると言うことなのです。
ただ、その時代の当の本人が書いた手紙を目にした時、今はいないその人間の心情が垣間見れる瞬間があります。
実はチェーザレの残した手紙の中には、チェーザレが聖職者であった事を誇りに思っていた事が伺える部分があったりします。
(いくつかの伝記の中には、聖職者より教皇軍司令長官に魅力を感じていた、という記述もあったりしますが)
1506年にチェーザレがナヴァーラ王に宛てた手紙には、自身の事を「元パンプローナ司教」と称しており、
この事からチェーザレが、過去色々な役職に就いた中で、枢機卿でもなく教皇軍司令長官でもなく、
パンプローナ司教であった事を誇示しているという事が大変興味深く、
(作中でも触れましたが、パンプローナはスペインで唯一イスラムに侵略を許さなかった地です)
また、このスペインの特別な地の司教の座を、息子のチェーザレに与えさせた父親ロドリーゴの思い入れなど、
こういった事柄から鑑みると、この親子の信仰心と、故郷スペインに対する執心が見えてくるような気がするのです。
1507年、チェーザレが戦死する事となるナヴァーラ王国ヴィアナでの戦いは、大変重要な戦いでありボルジア家にとっては、
反撃の開始とも言えるものだったため、ボルジアの統領であったチェーザレの死は、ボルジア一族にとっても大変な痛手となる訳ですが、
この段階でチェーザレ自身は、自分の代で思い描いていた未来図を完成させられるとは当然思っていなかったと思います。
現状からいって、それなりの知識を持っている者であれば、無理である事を十分悟っていたと思われるからです。
(ここで言うチェーザレが思い描いた未来図についても、いずれ捕捉しなければならない時が来ると思いますが)
こうして見ると、チェーザレの真の不幸は、後継者がいなかったという事かもしれません。
カエサルにはオクタウィアヌスという後継者がいましたが、チェーザレの場合、死後に誰も彼の意志を継ぐことが出来ず、
マキァヴェッリも、チェーザレを君主の理想像として奮起するものの、志半ばにして隠遁生活へと追いやられてしまいます。
(そのお蔭で「君主論」が世に誕生する事となるのですが)
それにしても、今後ここに到達するまでいったいどれくらいの時間を費やすのか・・・。
実は私にも想像がつかなかったりします。